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恨の碑(ハンのひ)。恨が解かれる日は来るのか[沖縄紀行・その8]

 読谷バスターミナルの近く、亀甲墓が並ぶあたりに、恨の碑(ハンのひ)はひっそりと建っています。

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 ここに恨の碑ができて、10年がたちます。恨の碑とは、71年前の沖縄戦の時に、朝鮮半島から沖縄に強制連行されて働かされていて亡くなった方々の慰霊碑です。

 当時は、朝鮮半島は大日本帝国の領土でした。たくさんの方が日本軍と日本政府によって有無を言わさず戦場へと徴用され、男性は軍夫として軍の下請け作業に従事し、女性は「慰安婦」とされたのです。賃金は実際には支払われませんでした。つまり、奴隷です。

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 沖縄戦が迫る1944年、慶尚北道(キョンサンブッド)から数多くの朝鮮人が沖縄にやってきて、日本軍と行動を共にしたのです。戦場で、朝鮮人は人間扱いされませんでした。玉砕戦であった沖縄戦で、朝鮮人の人たちは真っ先に犠牲になっていきました。

 沖縄戦の地獄から奇跡的に生還した慶尚北道の姜仁昌さんと徐正福さんは、1997年に「仲間の遺骨を拾いたい」と沖縄を訪れました。しかし遺骨は見つかりませんでした。

 その姜仁昌さんと徐正福さんが、「せめて慶尚北道と沖縄に慰霊碑を建立したい」と語ったことから、この恨の碑は建設されたのです。

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 恨(はん)は、日本語で読めば「うらみ」であり、怨恨の「こん」です。しかし、韓国の恨(ハン)には違う意味があります。

 人生の中で遭遇した悲劇、それがもたらした怒りや恨みや悲しみなどのマイナスの感情が、心の中で消えることのない「しこり」になります。それが「恨」なのですが、「恨」は「恨を解く」(ハンプリ)という衝動を通じて、強く前向きに生きていくエネルギーになると考えられているのです。

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 沖縄で亡くなった朝鮮人の遺骨が戻ることはありませんでした。

 消息をつかむこともできませんでした。沖縄の地元住民とも言葉が通じなかったわけで、戦場にたくさんの朝鮮人がいたことを証言する地元住民はいても、その名前を知っている人は誰もいなかったのです。

 「そんな人たちはいなかった」ということにされて71年がたち、もうあらためて調べることすらできなくなってしまいました。

 その恨を、私たちはどう解いていけばいいのでしょうか。恨が解ける日はいつになったら来るのでしょうか。

 「慰安婦問題は最終的に解決した」。そんな軽薄な言葉をぺらぺらしゃべっている、どこかの国の最高権力おぼっちゃまの耐え難い軽々しさに、いたたまれない恥ずかしい気持ちになるのです。

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 いつか、恨が解かれる赦しの時代は実現するのでしょうか。生い茂る月桃の木も、碑の周りを飛びまわる蝶(ハーベルー)も、何も言ってはくれません。

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 上の画像は、1999年8月12日、韓国の慶尚北道の英陽(ヨンヤン)で行われた、恨の碑の除幕式の様子です。沖縄の慰霊の舞いエイサーが行われました。

 韓国の英陽の恨の碑と、沖縄の読谷の恨の碑、向かい合って建っている二つの恨の碑が、平和な世界を導いてくれることを願います。

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