ちむぐりさ沖縄

不時着しようとすると墜落してしまう危険な飛行機・オスプレイ

 12月13日、沖縄県名護市の安部地区の海岸、集落から50メートルほどしか離れていない場所に、アメリカ海兵隊のオスプレイが墜落するという事故がありました。

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 オスプレイは、名護市の東側30キロメートルの海上で、空中給油の訓練中にトラブルを起こしました。飛行の継続が難しくなってキャンプ・シュワーブへと引き返す途中で、墜落したとのことです。

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 空中給油というのは、上の画像のように行います。空中給油機KC130から、油を送るホースが後方に伸び、そこに後ろから給油される側の飛行機が接近してホースの先端を接続するのです。

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 オスプレイが空中給油をされている時は、上の画像のような感じになります。これ、オスプレイにとっては難しいオペレーションですよね。なぜなら、ものすごく大きいプロペラが左右に並んで回転しているその隙間から給油用ホースを伸ばさないといけないからです。ちょっと間違えると、プロペラにホースがからまって大惨事になってしまいます。

 しかし、オスプレイにとっては、空中給油は是非ともしなければならないこととされています。それは、オスプレイが長距離侵攻を目的に開発された機体だからです。実際に、沖縄の普天間基地に配備されたオスプレイは、空中給油を受けながらたった2日間でオーストラリアの北端まで飛んだという実績を誇っているのです。

 今回の事故は、オスプレイが長距離侵攻をするための空中給油訓練最中に、給油用ホースがプロペラと接触するなどのトラブルを起こし、プロペラが破損して飛べなくなった可能性が高いものと思われます。

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 今回の事故は、日本政府は「不時着」事故だとしていますが、沖縄県は「墜落」事故だとしています。「不時着」か、「墜落」か、いったいどちらなのかという激しい議論が起きています。しかし、機体がバラバラになって飛び散っている事故現場の画像を見ると、これは不時着とはいいがたいですよね。常識で考えれば墜落です。

 アメリカ軍の準機関紙「星条旗」でも、今回の事故は「crash」、つまり墜落と書かれています。アメリカ軍が墜落だと言っているのに、意固地に「墜落ではない不時着だ」とこだわっている日本政府の政治家たちは、ちょっと滑稽ですよね。何を守ろうとしているんですかね。

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 ちなみに、上の真っ黒な煙を噴き上げている画像は、昨年ハワイでオスプレイが落ちた事故の画像です。この時はアメリカ軍は「hard landing」、つまり「衝撃を伴う着陸」という表現を使いました。機体が燃えてはいるがバラバラにはなっていないので、墜落とは表現しなかったようです。

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 今回の事故はアメリカ軍も認めているとおり「墜落」だったのですが、「不時着か」「墜落か」という論争が起きることそのものが、オスプレイという機体の脆弱性のあらわれなのです。

 海上でトラブルを起こし、基地に戻ろうとしてそれが無理だということがわかって、パイロットが浅瀬に不時着しようと試みたのは、おそらく間違いないのです。パイロットの主観では「不時着しようとした」のです。

 しかし、それが結果的には機体がメチャクチャになる「墜落という結果」になってしまった。つまり、オスプレイという飛行機は、安全に不時着することができない飛行機なのです。

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 オスプレイは離着陸の時には、プロペラを上に向けてヘリコプターのように垂直に離着陸します。しかし、空の上ではプロペラを前に向けて高速飛行をするのです。長距離を高速で侵攻するために、このような機体が開発されたのです。ところが、この機体はいったん事故が発生したら、とんでもないことになるのです。

 普通の飛行機は、飛行中に事故が起きてエンジンが止まってもグライダーのように滑空しながらゆっくりと高度を落とし、安全に不時着できる場所をさがします。また、普通のヘリコプターは、事故が起きてもプロペラをゆっくりと回転させながら空気抵抗を利用して高度を安全に下げていくのです。

 ところが、オスプレイはこのどちらも行うことができません。グライダーのように滑空するには固定翼が小さすぎるし、ヘリコプターのように空気抵抗を利用するにはプロペラが小さすぎるのです。

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 これは、12月16日に事故現場で見られた、アメリカ軍兵士の作業の様子です。なんと、放射能防護服を着て作業しているではありませんか。いったい、何がオスプレイに積まれていたのか、沖縄県民でなくても不安になります。

 しかし、オスプレイの危険さは、不時着しようとしても墜落になってしまう、機体そのものの設計ミスにあるのです。本質的に危険な飛行機であるオスプレイは、たとえ放射性物質を積んでいなくても、沖縄の空を飛ばすわけにはいかないのです。

 日本政府が、事故直後にさっさとオスプレイの飛行許可を出してしまったのは、どう考えてもおかしいのです。「民家の上に落ちなかったのだから感謝すべきだ」とアメリカ軍のニコルソン司令官に言われて、へーこらしながら許可を出しちゃったんでしょうね。屈辱っていう言葉、知ってるのかよ。

 



 

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沖縄の屈辱・大阪の恥・大阪府機動隊員の「土人」暴言

  大阪府警の機動隊員が、沖縄県民に対して「土人」とののしるという暴言事件がありました。沖縄やんばるの高江でのできごとです。

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 「土人」という言葉は、今では通常は使われなくなった言葉です。それが現役の公務員の口から飛び出したものだから、誰もがびっくりしてしまったのです。

 「土人」は、昔はアイヌのことを意味していました。江戸幕府や明治政府がアイヌを侵略し財産や人権を奪っていった時代に、アイヌが「土人」と呼ばれたのです。

 また、アジア・アフリカの人たちを「劣った民族」と差別する時にも「土人」という言葉が使われました。日本が台湾を占領した時代の台湾山岳原住民も「土人」と呼ばれることがありました。

 「土人」には、人間の形をしているが人間ではないというニュアンスがこめられています。もっとも攻撃的な人権侵害の言葉です。こんな言葉を使う人の人格が疑われます。

 沖縄県民に対して「土人」とののしった機動隊員は、沖縄県民を日本人だと思っていないということです。いや、人間だとは思っていないのです。

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 今回の暴言事件を聞いた人がネット上で、「いかにも大阪人らしいなあ」という書き込みをしています。大阪人は粗暴で口が悪くて怖いというイメージがあるのでしょうか。暴言事件で傷つけられ、被害を受けたのは沖縄県民ですが、大阪のイメージを害したという意味でも、大阪府警機動隊員の暴言は許されるものではありません。大阪の恥です。

 ところが、大阪府の松井知事はこの機動隊員を懲戒免職にするどころか、「よくがんばっている」とほめたというのです。あきれはてました。松井知事は大阪の恥です。

 大阪府警の機動隊員全員を、ただちに沖縄から撤退させるべきです。市民に対する接遇の教育が必要です。最低でも20年間は徹底的な接遇研修を受けさせるべきです。

 私たちは、傷つけられた沖縄の心とともに、嘆き、怒り、たたかいます。

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「解放のオガリ」を壊してしまうなんて [沖縄紀行・番外編]

 沖縄で彫刻家の金城実さんから、「解放のオガリ」の像が壊されてしまうという話を聞き、現物を見に行ってきました。

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  大阪市の住吉区、南海「住吉東」駅の近くに、「解放のオガリ」はありました。

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 この建物は、「市民交流センターすみよし北」ですが、今年の3月で閉館となっており、現在は立ち入ることができません。「解放のオガリ」が壊されるということは、この建物そのものが取り壊されるということなのでしょうか。

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建物の壁面には、レリーフもありました。

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 説明書きを読んでみると、「解放のオガリ」とレリーフは部落差別からの解放を求めるために、金城実さんと地域住民との共同制作で、1976年から1978年にかけて作られたことがわかります。

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 差別やいじめやハラスメントに立ち向かった人生の先輩がたの魂の意気の高さを感じる彫刻です。壊してしまうのはあまりにもひどいと、あらためて思いました。


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カメジローの心は生きている・不屈館 [沖縄紀行・その10]

 那覇市若狭にある「不屈館」に行ってきました。

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 不屈館は、瀬長亀次郎さんの生涯を展示した資料館です。

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 瀬長亀次郎さんは、1907年に沖縄の豊見城村に生まれました。戦後にうるま新報(現在の琉球新報)の社長に就任しましたが、沖縄人民党の結成に関わったことをアメリカ軍に嫌われ、社長を辞めさせられてしまいました。

 1956年には那覇市長に就任しましたが、またしてもアメリカ軍に嫌われ、軍の布令一本で市長を解任されてしまいました。アメリカ軍が市長をクビにできるなんて、ひどい話です。戦後の沖縄を占領していたアメリカ軍の権限というのは、たいへん大きく横暴なものだったのですね。

 その後はアメリカ軍犯罪に抗議する運動や復帰闘争等に取り組み、1970年には衆議院議員に当選しました。沖縄の施政権返還後は、日本共産党の議員として活躍しました。

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 「不屈」は、瀬長亀次郎さんが好きだった言葉です。権力を持つものがどんなに横暴にふるまっても、庶民の目線で正しいと思えることはあくまでも正しいと主張し、やられてもやられてもまた立ち上がっていく、それが亀次郎さんの生き方でした。 

 共産党の人ですが、沖縄では保守的な人たちのあいだでも根強い人気があります。
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 亀次郎さんは2001年に亡くなりましたが、沖縄の現実は変わっていません。亀次郎さんが生きていたら、凛とした声で告発の演説を始めると思います。

 アメリカ軍による独裁は終わったとはいえ、沖縄はアメリカ軍の基地による重圧に苦しんでいます。辺野古のサンゴ礁の海を埋め立てて新基地を建設するなどという、身勝手な計画が今も日米政府によって画策されています。 

 また、私たちが沖縄を訪れた直前に、アメリカ軍の元海兵隊員によって、うるま市在住の女性が殺害されて遺棄されるという、息をのむほどおそろしい事件も発生しました。アメリカ軍の軍属が犯罪をおかしても、「日米地位協定」という謎の日米密約によって罪を問われず、無罪放免で逃げてしまうことが繰り返されてきました。沖縄の人たちは「怒りは限界を超えた」と叫んでいます。

 沖縄の人々の心の中に、亀次郎さんは生きています。踏みつけられて終わってしまうのではないのです。

 不屈館館長の内村さんが、女性殺害遺棄事件について書いているので、紹介したいと思います。(不屈館のウェブサイトからいただきました。) 
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不屈館のウェブサイトはこちらから

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佐喜眞美術館の「沖縄戦の図」[沖縄紀行・その9]

 宜野湾にある佐喜眞美術館に行きました。

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 佐喜眞道夫さんが1994年に開設した私設美術館です。「もの想う空間」というのがコンセプトです。忙しく、いやなことばかりが起こる沖縄の日常生活の中で、ここに来ればゆっくりとものを想うことができる場にしたいということです。

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 佐喜眞美術館のある場所は、以前はアメリカ軍普天間飛行場の中でした。市街地の真ん中にあるので事故が絶えず、早期の撤去が日米政府間で合意されているという、あの飛行場です。

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 佐喜眞美術館の屋上にのぼってみると、すぐ隣に普天間基地が見えます。有名なオスプレイが常駐しているのですが、この日は飛んでいませんでした。

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 屋上から、基地と反対側を見ると、亀甲墓が見えます。これは、佐喜眞道夫さんの家の先祖代々の墓です。71年前に沖縄戦でアメリカ軍がやってきて、普天間の台地に勝手に飛行場を作ってしまいました。その時に、佐喜眞さんの家のお墓も、周囲の土地ごと接収され、アメリカ軍基地とされてしまったのです。

 美術館を作りたいと考えた佐喜眞道夫さんは、自分の家のお墓の周囲にある土地が最適であることに気づきました。しかしそこはアメリカ軍基地のフェンスの中。最初はどうしていいかわからなかったと言います。

 「美術館を作りたいから土地を返してほしい」そう考えた佐喜眞さんは、最初は日本の役所である防衛施設庁にそのお願いに行ったそうです。ところが、防衛施設庁の官僚どもはまったく聞く耳をもたなかったのです。

 佐喜眞さんは、アメリカ軍基地の司令官に直接話をすることに成功しました。すると、アメリカ軍司令官は「美術館を作るのは市民にとって良い事業だ。協力しよう。」と、土地の返還に同意してくれたのです。

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 佐喜眞さんが、困難な道を乗り越えてでも美術館を作りたいと思ったのにはわけがあります。丸木位里・俊夫妻の描いた「沖縄戦の図」を展示できる場が沖縄に必要だと思ったのです。

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 「沖縄戦の図」です。佐喜眞美術館のサイトからいただいた画像です。

 実物は4m×8.5mもの大きなものです。そこに沖縄戦で起きた様々な出来事が丹念に書き込まれているのです。

 遠くから見ると、黒くて赤くて何かよくわからない塊のようにしか見えないのです。しかし、近づいて見ると、一人一人の人物の表情までが見えてきます。黒い塊に見えたものは戦場の煙で、よくよく見るとその煙の向こう側に苦しんでいる人の顔がこちらを見ているのです。

 炎の中をはだしで走って逃げる家族。「集団自決」で首をしめあって殺しあう母と息子。

 リアルな「戦場」が、そこにはあります。

 極限状態におかれ、我を忘れた人の目玉は真っ白で、瞳が描かれていません。

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 丸木位里・俊夫妻は、沖縄戦を体験した方から長い時間をかけて話を聞き、沖縄戦を体験した人にモデルになってもらって、この絵を描き上げました。そして、この絵は沖縄に置いておくべきだと考えたのです。ところが、絵が完成しても沖縄にはそれを展示できるスペースがありませんでした。だから、佐喜眞さんは自分が美術館を開設して、そこに「沖縄戦の図」を展示しようと考えたのです。

 佐喜眞美術館では、この「沖縄戦の図」を離れたところから見ることもできますし、顔を近づけて細部にわたるまでじっくりと見ることもできます。

 ぜひ、実物を見に行くことをおすすめします。

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恨の碑(ハンのひ)。恨が解かれる日は来るのか[沖縄紀行・その8]

 読谷バスターミナルの近く、亀甲墓が並ぶあたりに、恨の碑(ハンのひ)はひっそりと建っています。

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 ここに恨の碑ができて、10年がたちます。恨の碑とは、71年前の沖縄戦の時に、朝鮮半島から沖縄に強制連行されて働かされていて亡くなった方々の慰霊碑です。

 当時は、朝鮮半島は大日本帝国の領土でした。たくさんの方が日本軍と日本政府によって有無を言わさず戦場へと徴用され、男性は軍夫として軍の下請け作業に従事し、女性は「慰安婦」とされたのです。賃金は実際には支払われませんでした。つまり、奴隷です。

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 沖縄戦が迫る1944年、慶尚北道(キョンサンブッド)から数多くの朝鮮人が沖縄にやってきて、日本軍と行動を共にしたのです。戦場で、朝鮮人は人間扱いされませんでした。玉砕戦であった沖縄戦で、朝鮮人の人たちは真っ先に犠牲になっていきました。

 沖縄戦の地獄から奇跡的に生還した慶尚北道の姜仁昌さんと徐正福さんは、1997年に「仲間の遺骨を拾いたい」と沖縄を訪れました。しかし遺骨は見つかりませんでした。

 その姜仁昌さんと徐正福さんが、「せめて慶尚北道と沖縄に慰霊碑を建立したい」と語ったことから、この恨の碑は建設されたのです。

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 恨(はん)は、日本語で読めば「うらみ」であり、怨恨の「こん」です。しかし、韓国の恨(ハン)には違う意味があります。

 人生の中で遭遇した悲劇、それがもたらした怒りや恨みや悲しみなどのマイナスの感情が、心の中で消えることのない「しこり」になります。それが「恨」なのですが、「恨」は「恨を解く」(ハンプリ)という衝動を通じて、強く前向きに生きていくエネルギーになると考えられているのです。

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 沖縄で亡くなった朝鮮人の遺骨が戻ることはありませんでした。

 消息をつかむこともできませんでした。沖縄の地元住民とも言葉が通じなかったわけで、戦場にたくさんの朝鮮人がいたことを証言する地元住民はいても、その名前を知っている人は誰もいなかったのです。

 「そんな人たちはいなかった」ということにされて71年がたち、もうあらためて調べることすらできなくなってしまいました。

 その恨を、私たちはどう解いていけばいいのでしょうか。恨が解ける日はいつになったら来るのでしょうか。

 「慰安婦問題は最終的に解決した」。そんな軽薄な言葉をぺらぺらしゃべっている、どこかの国の最高権力おぼっちゃまの耐え難い軽々しさに、いたたまれない恥ずかしい気持ちになるのです。

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 いつか、恨が解かれる赦しの時代は実現するのでしょうか。生い茂る月桃の木も、碑の周りを飛びまわる蝶(ハーベルー)も、何も言ってはくれません。

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 上の画像は、1999年8月12日、韓国の慶尚北道の英陽(ヨンヤン)で行われた、恨の碑の除幕式の様子です。沖縄の慰霊の舞いエイサーが行われました。

 韓国の英陽の恨の碑と、沖縄の読谷の恨の碑、向かい合って建っている二つの恨の碑が、平和な世界を導いてくれることを願います。

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波平の何我舎(ぬーがやー)で宿泊 [沖縄紀行・その7]

 読谷村での宿泊は、波平(はんざ・なみひら)にある民宿何我舎(ぬーがやー)でした。

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 バス停で降りて、何我舎に向かって歩きます。波平は古い集落なので、道路が迷路のように入り組んでいます。ヤフーの地図を見ても、よくわかりません。おかげで、いきなり道に迷ってしまいました。

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 炎天下の中を歩いていると、一台の車が追いかけてきて止まり、「何我舎にいくんじゃないですか。いやー、うちのお客さんじゃないかと思って。」と声をかけてくれました。何我舎の知花昌一さんでした。ありがたいことです。そして、なんとか何我舎に到着。

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 緑に囲まれた何我舎、ほっとします。

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 しばらく休憩してから歩いて出かけようとしたら、またしても道に迷ってしまいました。波平の集落から出て大きい道路に行こうと思っているのに、どうがんばっても袋小路にしかいきあたりません。照り付ける陽射しがこんなにきついものだと思ったことはありません。

 ぐるぐる同じところを回っているうちに、やがて、サトウキビ畑の中に出てしまって、スコールの真っ黒な雲が近づいてくるのが見えます。木の一本すら生えていない畑の真ん中でスコールに降られたら、えらいことです。ポツポツと大粒の雨が降ってきましたが、幸いなことに風向きが良くて雲はそれてくれました。

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 そのうちに、都屋のあたりまで行ってしまい、花織そばの店を見つけて、やっと自分の現在位置が把握できました。3キロメートルは彷徨ったでしょうか。おかげで上等な花織そばを食べることができて幸運だったと思うしかありませんでした。

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 何我舎の部屋の入り口にはお守りであるスイジガイがつるしてあります。

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 翌朝は、虫のにぎやかな鳴き声で目が覚めました。

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 朝ごはんは、宿泊客みんなで食べます。旅の情報交換の場になります。

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 何我舎を経営している知花昌一さんは、近くの何我寺(ぬーがじ)の僧侶でもあります。反戦地主としても有名な方です。

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チビチリガマ世代を結ぶ平和の像 [沖縄紀行・その6]

 読谷村の波平(はんざ)にあるチビチリガマ世代を結ぶ平和の像にお詣りに行ってきました。

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 71年前の1945年4月1日、アメリカ軍は読谷村の海岸に何百隻もの軍艦で押しかけて上陸しました。その海岸から数百メートルのサトウキビ畑の中に、チビチリガマはあります。ガマとは沖縄の言葉で自然壕つまり洞窟のこと。チビチリガマとは「尻切れ壕」の意味です。

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 敵国であるアメリカ軍の大部隊の上陸という非常時に、波平の住民たちはこのチビチリガマに避難しました。アメリカ軍には、非武装の一般住民に危害を加えるつもりはありませんでした。しかし、「生きて虜囚のはずかしめを受けるな」という教育を受けていた当時の住民たちには、アメリカ軍に降伏し捕虜となるという選択肢は考えつくこともできませんでした。

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 ガマの暗闇の中に避難した住民たちの中で、全員で死のうと主張する者、なんとか生き延びる道を考えようとする者、深刻な対立が発生しました。

 4月2日。混乱の中、集団での自死が発生してしまったのです。子どもたちもたくさん避難していました。子どもたちを親自らが手にかけるというとんでもない事態に陥りました。

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 布団をガマの入り口に積んで火をつけ、その火と煙で死のうとするものもあらわれました。おかげで、チビチリガマの入り口は今も黒く焦げています。

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 ガマから逃げ出して生き残ることができた人もいました。しかし、あまりにも恐ろしい事件の起きてしまったチビチリガマのことを、その後何十年もの間、誰にも語ることができませんでした。

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 沈黙のはてに、沈黙の重圧に耐えきれなくなった年月をすぎて、変化があらわれました。事実を語り継いで行こう、そう呼びかける者があらわれたのです。そして、チビチリガマの生き残りの人、遺族の人たちが共同制作したのが、チビチリガマ世代を結ぶ平和の像でした。製作指導は金城実先生が行いました。1987年4月2日に完成しました。

 あろうことか、平和の像はできあがって半年後に、心なき者の手によって無残に破壊されてしまいました。戦争の不条理さを世間に知らせる平和の像が存在することを、快く思わない者がいたのです。「チビチリガマの犠牲者は二度殺された」遺族は嘆き悲しみました。戦争は、終わってはいなかったのです。

 しかし、平和の像は遺族の手によって再建されました。再建の碑にはこう書かれています。

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チビチリガマから世界へ平和の祈りを
 

 1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米兵はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。尊い命を喪った。

 あれから38年後、やっと真相があきらかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供たちであった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。

 「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。

 遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7カ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。

 全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年余が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄戦終結50周年にあたり、ふたたび国家の名において戦争への道を歩まないことを決意し、ここに、この碑を建立する。

1995年4月2日

チビチリガマ遺族会

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山羊汁、元気がでるし、まーさんどー! [沖縄紀行その5]

 沖縄は食べ物がたいへん美味しいのです。そして、暑さを乗り切る生活の知恵があります。

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 読谷村の花織そばで食べた、てびちそば。

 「てびち」とは豚足のことです。沖縄では「てびち」や「そーき」(あばら肉)など塊の豚肉を泡盛で煮込んで脂肪を抜き、コラーゲンを残す料理法が発達しています。ですから、脂っこくないのです。

 沖縄では、豚肉をよく食べます。しかも、足の先まで食べつくす文化があるのです。

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 読谷村の居酒屋で食べた、沖縄やきそば(ケチャップ味)。

 昔、沖縄に初めて行った時に、今は無くなった読谷村の小さな食堂で焼きそばを頼んだら、この沖縄やきそば(ケチャップ味)だったので、びっくりしたのです。麺は本土の焼きそば用麺ではなく、太い沖縄そばの麺です。

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 那覇の食堂で食べた、中身イリチー。

 中味とは、内臓のことです。普通の野菜炒めに見えますが、豚のホルモンをカツオ出汁で炒めてあります。ホルモンの下処理の丁寧さで、味が決まってきます。

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 名護の鮨屋で食べた、ティラジャー。

 ティラジャーは、巻貝です。和名はマガキガイ。土佐料理の店でチャンバラ貝という名前で出されるものと同じです。

 これをゆでて殻から取り出したものを、わさび醤油で食べます。

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 同じく名護の鮨屋で食べた、シャコガイの刺身。シャコガイは、サンゴに埋もれるようにして隠れているので、海人がサンゴ礁に潜って取ってくるしかありません。

 コリコリとした食感であっさりしていて、アワビのようです。肝は、とろとろです。

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 そして、名護のオリオンビール工場の近くのヒ―ジャー(ヤギ)料理専門店、「ひんぷん山羊料理」にやってきました。

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 ヒ―ジャー(山羊)は、沖縄ではここぞという時のごちそうです。たいへん栄養価が高いのです。

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 ヒ―ジャー汁は、山羊のぶつ切りを泡盛で煮込んだものです。ホルモンも入っています。

 山羊の肉は独特のにおいがあります。ジンギスカンの羊のにおいをさらに強くしたようなにおいです。これが嫌いな人には食べられません。しかし、好きな人にはたまらないのです。におい消しにフーチバー(よもぎ)とおろしショウガを入れます。

 しかし、ヒ―ジャー汁を食べたら翌日まで山羊のにおいが体から抜けません。そして、山羊のパワーで元気に暑さを乗り切ることができるのです。

 ヒ―ジャー汁、まーさんどー!

 

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彫刻家金城実さんのアトリエ [沖縄紀行その4]

 読谷村の儀間の集落のはずれに、彫刻家金城実先生のアトリエがあります。アトリエからサトウキビ畑の斜面を下るとすぐそこにはサンゴ礁の海があります。

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 金城実先生は、沖縄の浜比嘉島の出身、今年で77歳になります。昔は大阪で暮らしていたこともあったのですが、現在は読谷村のアトリエで創作活動を行っています。

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 巨大な作品、「銃剣とブルドーザー」の一部です。伊江島土地を守る会の阿波根昌鴻、那覇市長の瀬長亀次郎など、実在の人物がモデルになっています。

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 両手を縛られた男性の像です。縛り上げられ、縛りつけられた者の悔しさを感じます。

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 エイサーのレリーフです。太鼓をたたきながら集団で踊る沖縄のエイサーが、沖縄独立の意気を高めるのでしょうか。

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 吟遊詩人海勢頭豊の像です。喜瀬武原(キセンバル)などの歌で沖縄では根強い人気がありましたが、6月19日の沖縄県民大会でも歌うなど、今では有名人になってしまいました。

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 琉球空手家の像です。琉球空手は昔は手(ティー)とか沖縄手(ウチナーディー)とか呼ばれた沖縄伝統の武術です。刃物を使わずに身を守る術として、古くから沖縄に伝わってきました。

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 金城先生に、島バナナをごちそうしていただきました。

「ある有名ホテルチェーン店が、女性の像を300万円で売って欲しいと言ってきたけど、ことわったよ。レプリカを作られたらたまらんからなあ。」

 と、おっしゃいます。先生の彫刻には、値段はつけられないようです。世の中には売り買いできないものもあるということを、教えていただきました。

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 「君たち、大阪から来たんだろ。大阪にある像が、壊されてしまおうとしているんだ。とんでもない話だ。」そう言うと、先生ははだしのまま家の外へ飛び出していきます。

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 あわてて追いかけると、先生は家の外にある像をさして、「これが20分の1のものだ。実物は、これの20倍ある。」とおっしゃいます。しかし、月桃の木が伸び放題に伸びてしまって、像を覆い隠しています。

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 先生は、のこぎりを持ってきて怒りをぶつけるかのように月桃の木を伐採し、像を見せてくれました。

「先生。これは有名な解放のオガリではないですか。解放のオガリが壊されてしまうということですか。」と聞くと、「そうだ。壊してしまおうとしている。それを止める者も大阪にはもういない。情けない。」と先生はおっしゃいます。

 解放のオガリと言えば、金城先生と大阪住吉の住民とが共同制作した巨大な彫刻。金城先生の代表作の一つです。

 大阪に住んでいながら、解放のオガリの実物を見たことが無かったことを、ちょっと反省しました。いつのまにそれが取り壊されるということになったのか、なんとも釈然としない気持ちになりました。

 なんだか宿題をもらってしまったような気分をいだきながら、先生の100メートル彫刻「戦争と人間」の写真集を購入して、アトリエをあとにしました。

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